「健康な人のマクロビオティック」というのを以前考えたが、今回は「病気の人のマクロビオティック」を考えてみたい。
病気治しはマクロビオティックの最も得意とするところである。薬を使うわけでもないのに、マクロビオティックは体を根本からととのえ、健康に導いていってくれる。
だがそれはあくまでも、「きちんと取り組めば」の話。禁忌食は厳密に避け、間食もせず、ただ体のために、玄米ご飯と野菜のおかずをよく噛んで食べる。
食べ過ぎず、空腹を大事にし、欲望は抑えてひたすらに正食につとめる。
こんなことは、病気を治すためにマクロビオティックに取り組もうとする人にとっては簡単なことだと思っていた。
だが実際はそうとも限らないようだ。欲望に負け、食べない方が良いとされるものに手を出してしまっているのに、「症状が改善されない」と悩む人がいる。
病気の元だから禁忌食としてあえて指定されているものを食べながら、病気が治らないと嘆くのは、大きな矛盾だ。
マクロビオティックは魔法ではない。劇的に症状を治してくれる病院でも医者でもない。
必要なのは個人の意志と継続の努力。これなくしては、治る病気も治らない。
皆が美味しそうなものを食べている中で、自分だけマクロビオティックの地味なご飯を食べるのは耐えがたいと思う人もいるかもしれない。
だが、それは、自分は病人であるという自覚が足りないだけではないか? 病気のとき、健康な人とは違う食事を摂るのは当たり前のことだ。病人食なんて言葉もあるくらいだ。
私は生まれてからずっと、食物アレルギーのために「肉、卵、牛乳」の除去食を実践してきた。除去食は病人食であるという認識だった。だからマクロビオティックの食事法を知ったときには驚いたものだ。食物アレルギーの除去食より厳しいではないか。
マクロビオティックは、ある意味、究極の病人食だ。
だから、健康な人と内容が違うのは当たり前。病気を治すためだ。耐えられるだろう。
自分は病人であるという自覚を持つこと。マクロビオティックで、食事で病気を治すのだという強い意志を持つこと。欲望に勝ち、言い訳をせず、食べたいものを食べられない不自由に耐えてマクロビオティックを継続すること。
そのくらいのことができなければ、マクロビオティックで病気など治せない。
体は、症状を出して、必死に「苦しい」と訴えている。その訴えを聞き届け、体のために精一杯のことをしてやるのが、理性のつとめ。誘惑に負けている場合ではない。
食べ物の力を信じて、マクロビオティックを信じて、真剣に向き合えば、きっと成果はあらわれる。
病気になってしまったということは、そこまで陰陽のバランスも崩れているということ。そんな風にしてしまったのを治すためには、相応の苦労がともなうというのを理解しなければいけない。
追記:9年後思うこと
2018年追記:上記コラムを書いてから九年。今、改めて読み返してみて、「厳しい論調だなあ」と、我が事ながら苦笑してしまった。
私自身が、自分に対して厳しめの発破をかけることが好きなので、そういうノリでビシビシと上記コラムも書いたのだと思うが、このコラムを病み果てた人が読んだらさらに元気を失うんじゃないかと心配になった。
上記コラムを書いた時点では、若かったこともあり、私は大きな病気を経験したことがなかった。
だが、それから四ヶ月後に大きく体調を崩し、立て直すのに三年要した。
その病をきっかけにマクロビオティックからも卒業したのだが、今思うのは、病人にとってマクロビオティックがすべてではないということ。
マクロビオティックの理論を参考にする部分があっても良いと思うが、マクロビオティックで避けた方が良いと言われている食品だからと言って厳密に避ける必要もない。
とにかく、医者と、自分の体・心と相談しながら、精一杯頑張るしかない。
病気というのは辛いものだ。不安なものだ。
生老病死が避けられないと言っても、やはりイヤなものはイヤ。
今、体のつらさに苦しんでいる人が少しでも楽になるように祈ります。どうかお大事にしてください。