私はマクロビオティックの勉強を桜沢如一氏の本から始めた。
ただの食事法だと思っていたマクロビオティックに哲学性を見出したときは驚いたものだ。
もともと哲学が好きだった私は、「哲学が食べられる」という点に非常な面白さを感じ、マクロビオティックの理論を貪欲に学んだ。もちろん実践に生かすためでもあったが、単純に、マクロビオティックの中心に息づく高遠な真理に惹かれたというのが一番大きい。
陽(幸せ)のために陰(苦労)が必要
マクロビオティックは哲学として新しかった。般若心経の空(くう)の理論で「物事には優劣も美醜も清濁もない」というのを学び、その考え方のおかげで随分助けられもしてきたのだが、マクロビオティックの無双原理には空の理論とはまた違う激しさと積極性があった。より人間的で生活に根ざしているとでも言おうか。
万物は陰陽から成るとし、陽の存在のためには必ず陰が要るという。その 無双原理によれば、苦難すらも人生にとって必要な存在となる。陰と陽は、その割合は違えど必ず対になっていて、苦難なしには幸せはありえないということになるからだ。
もし苦難(陰)がまったくないとすれば、幸せ(陽)も存在できない。
苦難がなければ幸せはないと思えば、自ら苦難を求めるような気持ちになる。
空の理論と無双原理
苦難がふりかかってきたときに、「これを苦難と思うのは人間の尺度であって、本来は何の価値づけもされていない」と心を静めさせてくれたのが空の理論であるならば、「苦難があるということは幸せが来るということだ」と希望と情熱を燃え立たせてくれたのが無双原理だ。
マクロビオティックも絶対善ではない
無双原理は、マクロビオティックそのものにも激しさを向ける。マクロビオティックを学び始めた当初、私は「これは健康になるための偉大な食の知恵だ。マクロビオティックは絶対善だ」と思っていた。
だが、すべてのものに陰と陽があるならば、マクロビオティックも「絶対善」ではあり得ない。
むしろ、絶対善に近い善であるだけに、一歩間違うと絶対悪に近いところまでひっくり返る可能性があるのだ。つまり、健康を得るどころか、少しでもミスをすれば病気になってしまう。「オモテ大なればウラもまた大なり」。
それまで絶対善、絶対悪というものがあると思っていた私にとって、その考え方は衝撃的だった。
私は、自分のことを善と言い切らない思想を持つマクロビオティックに好感を覚えた。正しく無双原理を操れなければ病気になってしまう、それでもやってみるかい? と挑発されているような気持ちにもなり、よし、それなら間違えないようにやってみせようじゃないかとマクロビオティック実践に対し意欲も湧いた。
哲学二大支柱
私は現在、空の理論と無双原理を、自分の中の哲学二大支柱として生活している。現状を受け入れることが必要なときは空の理論、たくましく切り開いていきたいときは無双原理。
無双原理と出会えたことは、花の種を植えるために土を掘ってみたら小判が出てきたようなもので、まことに予期しない僥倖。とても幸運だったと思う。
さて、そんな魅力的な無双原理ではあるが、提唱者である桜沢如一氏が著作『千二百年前の一自由人』の中で無双原理と並んで称しているものがある。「法華経」だ。
『無双原理世界観妙法蓮華経』なんて言葉が出てきたときには「えっ、法華経は無双原理なの? それとも無双原理が法華経なの?」と、法華経とマクロビオティックが実は同じ世界観を根底に漂わせているらしいことに驚き、少し混乱もしてしまった。
私は、法華経を学んだことがない。だが桜沢氏の一言で、俄然興味が湧いた。法華経に、マクロビオティックの秘密が隠されているかもしれない。何かまた新しくわかることがあるかもしれない。だから、「法華経大全」なんて分厚い本を買った。これから読もうと思っているところだ。
マクロビオティックを学ばなければ、法華経など一生読まずに終わったかもしれない。これも何かの縁。マクロビオティックをきっかけに、私の精神世界はどんどん豊かさを増していっている。