前項で「怒りを手放す方法」について書いた。
他人に対して抱いた怒りが、その人との関わりがなくなってからも何年も消えずに苦しいときに、怒っている自分に対して「許してやれ、許して差し上げろ」と心の中で語りかけることで楽になる。
私という人間は、どちらかというと自分にも他人にも厳しく、今までこの「寛容」の精神がうまく身についていなかった。
だからこそ、「寛容」を、生まれて初めてと言って良いくらい真剣に心がけてみたときに、思いがけず楽になれたのかなと思う。
そしてこの「寛容」というのは、他人に対してだけでなく、自分に対しても有効だというのを、最近ひしひしと感じている。
自分を許す
というのも、私は、「許してやれ」と自分に言い聞かせることで楽になった経験以降、色んなイヤなことを思い出すたびに「許してやれ」と思うことに凝(こ)っていたのだが、あるとき、過去に自分がした失敗行為を思い出し、残念な気持ちになった。
他人にイヤな目に遭わされた記憶ではない。自分が、結果として、あまり好ましくない行動を取ってしまった記憶。
あーあ。あのとき、ああ動けば良かったな。という後悔。
そういうとき、いつもだったら、「仕方ないよ、あのときはあれがベストだと思っていたんだし」とか、「あのことがあったおかげで成長できた部分もあったんだから良いよ」などと自分を励ましているのだが、そのとき初めて「許してやれ」と自分に言ってみた。
すると、なんということか、懸命に自分を慰め、励ますときよりも、根本から、心が楽になるではないか。
自分に怒っていた?
自分に対して、過去の失敗を許してやれと言って楽になるということは、自分は、過去の自分に対して怒っていたんだ。
どうしてもっとうまく動けなかったの? と、過去の自分を責めていたんだ。
「仕方ないよ」「成長できた部分もあったんだし」という慰めでも、一応立ち直ることはできるのだが、それだと「本当は違う風に動きたかったな」とちょっと寂しい気持ちは残るのだ。
それは、「仕方ないけれど、失敗は失敗」という否定的な心が多少なりとも残っているせいなのだと思う。
私は、過去の失敗について、それをやった自分を責めているつもりはなかった。けれど責めていたのだ。怒っていたのだ。それで、自分で自分を萎縮させていた。
そのことに、自分に対し「寛容」の目を向けたことで気づいた。
許してやれ
許してやれ、という響きには、行動の結果を失敗だとか成功だとか判断する雰囲気がない。
丸ごと全部、肯定して、包み込むおおらかさがある。
私は今までけっこうな完璧主義者で、それが自分を頑張らせてくれると思っていたのだが、完璧主義も行きすぎると苦しいものである。
そろそろ息切れしてきた私に、「寛容」の「許してやれ」精神は、明るい癒やしの光を投げかけてくれた。
自分の不寛容さが、自分を苦しめてきた一因でもあったのだろう。
自分を怒らず、責めず、「許してやれ」。
自分に対して、そういう度量の大きい自分でありたい。
そして、もっと楽に、楽しい気持ちで生きていきたい。