(「悪口を言わない・その1」からの続き)
悪口は言わない。自分を傷つけないために。
そう決めた私の内なる闘いが始まった。
悪口というのはどういうときに言いたくなるか? それは、相手を分析し、「間違っている」「自分にとって心地よくない」と判断したとき。
悪口を言いたくないのなら、そもそも、相手を分析してはいけない。
私は、目に映じたものすべてに対し、「何も思わない、何も感じない」ようにする訓練を始めた。
何を見ても、心に何も浮かばないようにするのだ。心を常に静寂で満たすのだ。
訓練を始めてみると、今までいかに自分が様々なものを分析し、判断していたのかわかった。
たとえば、何気なく辺りを見回して目に入った看板の文字を、私は頭の中で声に出して読んでいた。
電車で誰かの前に立てば、その人の持っているバッグを見て「可愛いな」などと思っていた。
看板の文字を読むくらい、誰かのバッグを可愛いと思うくらい、その事柄だけを見れば何の罪にもならない。だが、「何かを見て分析し、判断している」ことには変わらないのだ。その心の動きは悪口の発生に通じる。
私は、どんなに罪がないと思える判断でも、決して心に浮かばせないように自らを厳しく律した。
道を歩いている人を見ても、男だとも女だとも思ってはいけない。何を着ているとか、どんな顔をしているとか、分析してはいけない。
道ばたの石ころを見て、何も思わず通り過ぎるときのように、無心に。
この訓練が、最初からうまくいくはずはなかった。
それまで、頭の中は声でいっぱいだったのだ。「あ、あの人の髪型いいなあ」「デジカメだ~欲しいな」「制服だ。どこかの高校生かな」
何も思わない! と力んでいても、目の前に誰かがいたりすると、ふっと頭に言葉が浮かびそうになることがある。そんなときは、マラカスを両手に持ったおじさんを脳内に登場させ、激しく踊らせた。
ついおこなってしまいそうになった分析や判断を、マラカスの激しい音とダンスで打ち消すのだ。
同時に、「私は何も思ってない! 思っていません!!」と、心の中で叫んだ。
分析や判断止まりならまだ良い。マラカス作戦が間に合わず、ときには、それが批判に発展してしまうことがあった。胸の内でつぶやく悪口だ。
訓練中の失敗だが、そこで立ち止まって自分を責めている暇はない。私は心の中で自分の発言を打ち消し、即座に謝った。「いいえ、嘘です嘘です、そんなことは思っていません。ごめんなさい」と。
何を見ても、何の判断もしない。判断しそうになったら必死に打ち消す。打ち消すのが間に合わなくて批判してしまったら、心の中で発言を取り消して謝る。
私は徐々に修行に慣れ、四ヶ月も経った頃にはマラカスおじさんもほとんど登場させなくて済むようになっていた。
そしてこの修行を積んでいくうちに、私の心に確実に変化が生じてきた。
それまでは、起きている間じゅう頭の中はお喋りでいっぱいで、ささいなことも分析し判断し心に留めてしまうから、寝る前には精神がゴミだらけ。
一日のうちにあった色々なことを思い出して、ついでに過去のいやだった出来事も芋づる式に思い出したりして、なかなか寝つけなかった。
それが、「何を見ても何も思わない訓練」をするようになると、一日の終わりに心が清らかなのだ。
極端に言えば何も覚えていないのだ。だって、何を見ても、何も見ていないかのように心を操作して一日を過ごすのだから。
当時、私はマクロビオティック羅針盤とは違うサイトを運営していて、そこで日記を書いていた。
その日記が書けなくなった。何も思わないで一日を過ごしてきたから、何も書くことがないのだ。
「悪口・批判」につながる前の「分析・判断」から消したから、私の心はぽっかりと軽く、まるで家具のない真っ白な部屋のようになった。
相手への態度はそのまま自分への態度につながる。私は自分のことも分析・判断しなくなり、裁かなくなった。
これが、なんとも心地よかった。とても楽になった。
相手を無意識のうちに裁いてばかりいたから、「自分も同じように裁かれるのではないか」とビクビクしていたのだ。
目に映る人々を分析してばかりいるから、「自分も誰かに分析されているのではないか」と人の目が気になりすぎていたのだ。
自分と相手はつながっている。だから、相手に斬りかかってはいけない。
私は今でも、「誰かや何かを分析・判断しない」という修行を続けている。
初期の頃のように何でもかんでも見なかったことにするという態度ではなく、正当に語るべきことであれば分析や判断もするが、それでも批判や悪口にはならないように気をつけている。
完璧にうまくいくというわけではなく、失敗し、反省することもある。だが、「相手を傷つけまい」と努力するのとしないのとでは、心の汚れ方に雲泥の差が出てくる。
「悪口を言わない」というのは、自分の心を明るく保つための第一歩なのだ。