風邪をひどくこじらせたことにより味わった、四ヶ月近くにおよぶ体調不良。ここまでひどく体を壊したのは人生で初めてだ。
病気になんて、かからないで済むならかかりたくない。肉体も精神も疲れ果てるし、なんだか時間を無駄にしてしまったような気にもなる。
けれど、病気になる前となった後で、どちらが精神の格が上かといったら、絶対に病気になった後なのだ。
健康を誇っていた頃
マクロビオティック実践が波に乗って病気を知らずにいたころ、私は自身の健康を誇っていた。
同時に、健康ではない人を心のどこかで嗤(わら)っていた。
マクロビオティックの実践によって意識的に健康を築き上げたという自覚があったから、マクロビオティックの原則から大きく外れたような食事をしている人を見たとき、「あ~あ、そんな食べ方をしていては病気になるよ」と思っていた。
誰かが病気になったと聞いたら、「食べている内容が良くなかったんだろうね」となかば哀れみ、なかば批判するような気分になっていた。
そんな風に考えるのは良くないとわかっていたから、努めて自分のことだけに集中するようにしていたが、自分の健康に磨きがかかればかかるほど、健康ではない人を無意識のうちに見下してしまう。
病気になるような食べ方をしたからだ、自業自得だと、冷たい心が生まれてしまっていた。
自分が病気になってみて
だが、今度は自分が病気にかかる番が来てしまった。
病という暗闇のただ中に突き落とされ、出口を閉ざされて外から鍵をかけられた。逃げようにも逃げられない。背後から襲いかかってくる病気に羽交い締めにされ、私は、今まで自分が病気の人に対して思ってきた言葉が自分にそっくりそのまま返ってくるのを聞いた。
「病気になるような食べ方をしたからだよ」「自業自得でしょ」「私のようにもっと食事に気をつければ病気になんてならないのに」
違う……。病に締め上げられ、息も絶え絶えになりながら、私は病の本質を垣間見た。
防げない病気は悪ではない
病気は、"良い食べ物"だけで防ぎきれるものではない。
防げる病気ももちろんあるだろう。だが生きている間には、まるで運命のように、避けきれない病気にかかることもあるのだ。
そしてそれは悪ではない。
病気は、人間にとって普遍的な苦しみの一つだ。仏陀だって、四苦に「生・老・病・死」をあげている。
生まれれば、老い、死にゆくことは避けきれぬさだめ。そのさだめと同列に「病」も入れられているということは、病がいかに人間にとって自然で身近なものであるかということを示している。
病を人生に受け入れる
私は健康を誇り、驕り、健康を絶対視する分だけ病を蔑み、恐れてきた。
だがそうやって、避けきれるものでもない人生の苦から、まなじりをつり上げて必死に逃げ続けるのはどんなに大変だったことか。
ついに私は病の手につかまり、あっと振り返る間もなくその黒いもやの中に取り込まれてしまったわけだが、つかまってしまえばもう逃げなくて良いのだ。安堵感にも似た諦めが心に生じ、私は観念した。
私は、病気になってしまった自分を受け入れると同時に、病気という存在そのものを人生に受け入れる気になれた。
病人の悲しさ、心細さ、怒り、不安、絶望を知った。
病気が人ごとではなくなる
病にかかれば、生きるか、死ぬか。死をも覚悟したけれど、私はどうやら生かされた。
生のステージに戻ってきて、見える景色は以前と違う。
病気の人を見れば、まずその人が味わっているだろう苦しみを想像し、自分が病体になったような錯覚を起こしながら同情する。
微熱が続くと訴えている人がいれば、「そうだよね、微熱が長引くというのもきついんだよね!」と布団をしいてあげたくなる。
まるでひとごとではなくなったのだ。
失敗も貴重な経験
病気にはなりたくなかった。けれど病気にならなければこんな優しさは得られなかった。
病気にならずして優しさだけを学べたのなら一番良かったけれど、この宇宙、そう都合良くはできていないらしい。
「病気になって良かった」とは、その病気の痛みを思えば素直には言えない。だがきっと、私は病気になる必要があったし、これで良かったのだ。
好きで失敗する人間などいない。失敗なんて誰だってしたくない。それだけ失敗というのは痛いから。
しかし、普段は避けているからこそ、失敗というのは貴重な経験とも言える。
「転んでもタダでは起きあがるものかぁぁ!」。マクロビオティック実践時代、よく叫んでいたセリフである。私はよく失敗していた。
今回はもう起きあがれないくらいの打撃を受け、倒れたまま枯れ木になって大地に還っていくかと自分を心配したが、いや、枯れるにはまだ早い。
「病人への同情心」だけではなく。もっともっと、病気になったからこそ手に入れられる宝を貪欲につかみとるんだ。
それじゃなきゃ病気になった意味がない!
目に炎が宿る。倒れた私は土をつかみ、歯を食いしばって立ち上がる。