読者の方からメールをいただいた。
マクロビオティックを実践する多くの人が突き当たるであろう課題を含む内容であったためここで取り上げさせていただきたい。
メールをくださったAさんは元々、非マクロビオティック実践者。
数年前からご家族がマクロビオティックを勉強なさり、食卓から動物性食品と白砂糖が消えたのだという。
そこまでは特に問題はない。Aさんは体調も良く、マクロビオティックの食事内容そのものに不満があるわけではない。
Aさんが憂いておられたのは、ご家族の、「動物性食品や白砂糖を食べる人」、および「動物性食品や白砂糖そのもの」に対する批判的な見方である。
たとえば、誰か気の合わない人がいれば、「肉や白砂糖を食べているからあんな性格になるのだ」と攻撃する。
また、たまに肉や魚も食べていたマクロビオティック実践者が病気になれば、その人の食事内容が厳格ではなかったことを責め、同じマクロビオティック実践者として恥ずかしいと言う。
Aさんは、「好き好んで病気になったわけでもなく、苦しんでいる人に対して「恥ずかしい」とは耳を疑いました。」とおっしゃる。
この話をうかがい、Aさんのご家族は以前の私と似ていると思った。
『病気になって得るもの』から当時(2009年1月頃)の私の状況を説明した部分を抜粋する。
『マクロビオティック実践が波に乗って病気を知らずにいたころ、私は自身の健康を誇っていた。
同時に、健康ではない人を心のどこかで嗤っていた。
マクロビオティックの実践によって意識的に健康を築き上げたという自覚があったから、マクロビオティックの原則から大きく外れたような食事をしている人を見たとき、「あ~あ、そんな食べ方をしていては病気になるよ」と思っていた。
誰かが病気になったと聞いたら、「食べている内容が良くなかったんだろうね」となかば哀れみ、なかば批判するような気分になっていた。
そんな風に考えるのは良くないとわかっていたから、努めて自分のことだけに集中するようにしていたが、自分の健康に磨きがかかればかかるほど、健康ではない人を無意識のうちに見下してしまう。』
『病気になるような食べ方をしたからだ、自業自得だ』
(『病気になって得るもの』より)
このような心になってしまっていたのは、ひとえに、マクロビオティック実践後、一度も体調を大きくは崩さず健康を維持していたからであった。
現在の健康はすべてマクロビオティックのおかげだと感じ、マクロビオティックの教えに従っていれば健康でいられると信じるようになっていた。
しかしその思いは同時に、マクロビオティックの教えに背けば病気になるという恐怖感をも育てていった。
とにかく病気が怖かった。病気は悪だった。嫌っていた。逃げたかった。だからマクロビオティックから離れられなかった。
だが私はマクロビオティックに片足を突っ込みながらも、より自由度の高い「自分だけのマクロビオティック」を模索して、遠くに手を伸ばした。そうしたらバランスを崩して転落し、あっというまに病人になった。
この打撃たるや。『マクロビオティックと堕落論』に書いたように、もう心が真っ黒であった。
しかしこの打撃こそが私を目覚めさせたのである。
私は病気とがっぷり四つに組み合い、病気について正面切って考えた。考えに考えた。そして受け入れた。この世には避けきれぬ病気もあると悟った。
そしてその気付きが、私をマクロビオティック道のさらに先に連れていってくれたのだった。
私は、『自分だけのマクロビオティックを究めた先にあるものは?』にも書いたように、マクロビオティック実践者というのは、いずれ必ず自分だけの健康道に入っていくと信じている。
マクロビオティックはまったく良いことを言っていると今でも思う。国産、無農薬、無添加のものを。玄米ご飯に、野菜のおかず。素晴らしい。健康状態も上向く。だからこそ、その教えについ縛られてしまう。
だがマクロビオティックは他人が考えたものだ。他人の作ったワクに自分を無理矢理当てはめていると、そのうち全身が痛くなり、抜け出したくなる。そのときが、さらなる飛躍のチャンスだ。
きっと、そのときは来る。
それまで、Aさんなりにマクロビオティックへの理解を深め、ご家族に愛情と感謝を示しながら、豊かな話し合いを重ねていただけたらなと思う。
「マクロビオティックを実践していれば健康で平和になる」。Aさんのご家族の言葉である。他人の食事内容を批判しているうちは平和とは言えず、これからまだ乗り越えなければいけない壁も多いかもしれないが、Aさんのご家族がマクロビオティック実践でたどり着きたい境地はそこなのだろう。ぜひ到達していただきたい。
最善の方向へAさんご家族が進んでいかれることを祈っている。