このサイトを作り上げたころ、私は自分がマクロビオティックをやめることになるなど想像もしていなかった。
マクロビオティックに感動し、「こんな素晴らしい哲学を自分のものだけにしておくなんて罰当たりだ。ぜひインターネットで広く公開したい」と熱く情熱をたぎらせていた。
想定した読者は、マクロビオティックをこれから学ぼうとしている人たち。
病気を治すためでも、ダイエットのためでもなんでもいいから、「マクロビオティック」というものがあるのを小耳に挟み、「どんなもんだろう」と何気なくインターネットで調べるような、そんな人たちに読んでもらいたいと思っていた。
実際に運営を始めると、メールをくださるのは初心者よりもある程度の実践者の方が多かったが、それでも「マクロビオティックに関わりがある」という点は共通していた。
「マクロビオティック羅針盤」というサイト名だもの。マクロビオティックというキーワードで集まった人々が、このサイトを見ているのだ。
それは、私の中では真実として定着し、だからこそマクロビオティックをやめるという段になって不安が生じた。
マクロビオティックに興味のある人たちが見ているというのに、肝心のマクロビオティックをやめるとなってはその人たちをしらけさせるのではないか。
「見るべきものはもうない」と私のサイトを去っていってしまうのではないか。
そうしたら、私はぽつんと一人。
やめると言いたくない
……言いたくない。マクロビオティックをやめるだなんて、言いたくない。
けれどもう、私はマクロビオティックについて語ることは語りつくし、実践するべきことは実践しつくしてしまっていた。
これ以上、マクロビオティックを書くことはできない。ネタ切れだ。だったらどうなる? マクロビオティックをやめるとも言えないで、だからといってマクロビオティックについて書くこともできないで。
このサイトの命脈が尽きてしまうではないか!
初心を思い出す
それはいやだ。私は、サイトを作ろうと決めたときの自分の気持ちを思い出した。
特定の誰かのために作ったサイトではなかったはずだ。ただ、自分の思いがあふれて、それを書きたくて仕方ないから書いたんだ。
確かに「こんな人が読んでくれるかな」と想像はしたが、誰が読むでもないとわかったからといって、「じゃあやめる」とはならなかったはずだ。
読んでもらえるから書くのではない。書きたいから書いてきた。
また振り出しに戻っても、それでいいじゃないか。皆が去っていったとしても、だからどうだというの。書ける喜びは失せはしない。
私は、「ヤー!」とすべてをなげうつ気持ちで、「マクロビオティックという学舎を卒業するとき」を書き、掲載した。
ずっと心に隠していたことをさらけ出し、晴れ晴れとした。これで、書き続けられる。サイトの命をつなげられる。
孤独を覚悟した
一人になってしまったと思った。私は独学のマクロビオティック実践者だったから最初から一人だったけれど、「自分だけの健康道」なんて、ますます誰もいないところに来てしまった。
まあそれもいいか……。と、鳥のさえずりを聞きながら気を取り直して歩き出そうとしたとき、思いもよらないメールが届き始めた。
マクロビオティック実践者ではない人たちからだ。
あるお一人は、「健康に気を配って生活しているけれどマクロビオティックを実践してはいないから、メールを出しにくかった」と告白してくださった。けれどマクロビオティック修了宣言を読み、親近感を持ち、メールをくださる気になったという。
私は驚いた。「マクロビオティック」という限定的なくくりではなく、「健康的な食生活」に興味を持ち、このサイトを見てくださっている方もいたのだ。
そのような方たちにとってみれば、私がマクロビオティック実践者であることが逆に垣根となっていたのだ!
一人ではなかった
ああそうか。私は改めて周りを見渡し、自分が一人でないことに気づいた。
「自分だけの健康道」を歩んでおられる方が、あっちの山にも、こっちの山にも、大勢見える。
私は一人になったのではない。マクロビオティック実践時代よりもよほどたくさんの人々がいるところに出てきたのだ。
失うものあれば、得るものあり。マクロビオティックをやめたことでひらけた新しい世界が、眼前にまばゆくきらめく。
より納得できる居心地の良い場所にどんどん近づけているという感覚が、今、私の体を包んでいる。