2007年10月30日
~午後二時~
・玄米ご飯160g
・梅干し一個
・べったら漬け2枚
・黒すりごま、白煎りゴマ
・水200cc
昨日は禁断症状に苦しんだ。1日だけで7号食はやめてしまおうか、でもそんなんじゃコンテンツにならないかな、なんて朝は思っていたけれど、いざ食事の時間になったらなんとなくまた7号食になった。
昨日、玄米の消化に7時間ほどかかった感じがあったので、今日は胃の負担を減らそうと、「口での消化」を目指す。噛んで噛んで噛みまくって、唾液でほとんど消化してしまえ、という意気込み。一口200回は噛む。噛んでいるうちにどろどろになってきて思わず飲み込みそうになるのをこらえて噛み続ける。
噛むのに時間がかかるので、一口ごとに箸を置くようになった(今までは持ちっぱなし)。そして、噛んでいる間は見るものもないので、目をつぶるようになった。椅子の上になぜか正座し、手を座禅のときのように組んで(気が付いたらそんな姿勢になっていた)、もくもくと目をつぶって噛む。
最初は噛む回数を数えていたのに、はっと気が付いたら無の境地で噛んでいた。……まったくもって「修行」だ。だんだん僧侶になってきた気がする。言葉遣いまで変わってきた。「~なのじゃ」とか。どういうことだ。
今まで、ご飯が主食であることはわかっていたけれど、それでもどうしても「おかずを食べるためのご飯」という認識であったような気がする。それが、7号食をやってみて、「ご飯こそが主食であり主菜である」という考えに至った。至らざるをえなくなった。だって実際、玄米しか食べるものがないのだから。
梅干しやたくあんはご飯を食べるためのアクセント。これが本来の「主食とおかず」のあり方であったかと目を見開かされる思い。
20分かけて食べ終える。胃の膨らみ方は通常食後時の1/3。カロリー的にもおそらくかなり低いのだろう。でも満腹感を得られたのでここで昼食は終わりとする。また腹が減ったら食べれば良い。体の声を聞くのじゃ。
中庸の精神にはなったか? ……おそらく、玄米を噛んでいるときの無の境地が「中庸」に近いのだろう。楽しみのために食べるのではなく、命をつなぐために食べる。そこにきらびやかさはないけれど、しみじみとした感動がある。
7号食をやっている自分がおかしい。本当に、何やってるんだろう。現代日本で、しかも家の中で、こんな仙人のような心境になれるとは思わなかった。大変愉快だ。(大丈夫か? 自分)
~午後五時~
腹が空いてきてまた「おやき食べたい」の妄想が駆けめぐり始めたので夕食とあいなる。
・ご飯と一緒に炊いた昆布を刻んで醤油をかけたもの
・べったら漬け3枚
・白煎りゴマ、塩少々
・水180cc
夕飯を食べたら妄想は止んだ。
それにしても一口ごとに100回以上噛むと顎が疲れる。疲れるけれど胃のために口が頑張らなければいけない。