1月14日、どんど焼きのために神社に行ってきた。お飾りと、昨年神棚にお祀りしていた神札をお焚き上げしていただくのだ。
だが実は、そのどんど焼きにかこつけて、密かに狙っていたものがあった。
おみくじだ。
1月3日に初詣に行ったときも引いた。神社が好きで、行けば必ずおみくじを引く私は、初詣のご神託をかなり重視していた。だから自然と、おみくじの箱をまさぐる手に力が入った。邪念も入ったかもしれない。「大吉がいいな……」と。
時間をかけて一枚引き当て、開いた結果は「末吉」だった。
いやいや、吉凶に惑わされてはいけないと本文を読むが、その内容もなんだか気落ちするようなもの。
新年早々「末吉」って、どうなの? へん、おみくじごとき! と強がりたいが、「神様からメッセージをいただくんだ」と信じて引いたのだから、今さら強がってもむなしくなるだけ。
私は決めた。もうすぐどんど焼きがある。そのときにもう一度引いてみよう。そうしたら大吉が出るかも。
他の時期ならいざ知らず、新年はやっぱり大吉でキメたい!
どんど焼きの炎の中に、私は初詣で引いた末吉のおみくじもくべた。これで末吉の過去は灰となった。新しいご神託はきっと希望に満ちているはず……。
社殿でお参りも済ませ、勢い込んでおみくじを引く。一緒におみくじを引いた母が、私より先に開いて、「大吉が出た」とあからさまにはしゃいでいる。母が大吉? ……二人続けて大吉なんてないんじゃないか……。嫌な予感を抱きながら、引いたおみくじをめくると。
小吉。
その場にくずおれそうになった。いや、おみくじは吉凶じゃない、そのメッセージが大事なんだと何度自分に言い聞かせても、がっくりしてしまう。
「おみくじの結果なんて関係ないよ」と、私が落胆しているのを感じたのか、母がにこにこと話しかける。
「母さんはいいよね、大吉だったんだから」
「え~、でも、大吉ってそれ以上良くならないという意味だからあまり喜べないというよ。逆に大凶は、そこから良くなっていくばかりだから、大凶が出るまで引き続ける人もいるって聞いたことがあるよ」
眉根を寄せて大吉を握りしめる母に、私はため息混じりに言った。
「……大吉の悪口言わないでよ~。大凶は大吉に転じるっていうのはいいけど、大吉は大凶に通ずるなんて考えたら何も楽しいことがなくなっちゃうでしょ。大吉は大吉でいいのっ。しかも私の引いたの、大凶じゃないしっ」
「大凶は大吉」。これは、マクロビオティックの「陰あれば陽」でも言い表せる。人生の苦境を乗り越えるのに大切な考え方だ。
じゃあ、「陽あれば陰」(=大吉は大凶)なのか? いや、そうではない。陽は、自ら積極的に陰を負うことによって陽であり続けるのだ。
つまり、大吉を引いたら(陽)、そのありがたいご神託に感謝しながら謙虚にできるだけの努力をすれば(陰)、良い運気(陽)を持続させられるのだ。
だから、陰あれば陽、陽は陰を背負うことで陽。これぞ、人生のすべてを喜びに変えるマクロビオティック無双原理の真髄!
……とは言うものの。「小吉」というなんとも微妙な結果を陰にも陽にも結びつけられず、ちょっとふてくされてしまう私なのであった……。
中庸ってことで、一番バランスの良い結果と考えれば良いのだろうか? ああ、こんなに振り回されるなんて、しばらくおみくじは引かないでおこうッ!(ほとぼりが冷めた頃にまた引いて、一人騒ぎそうな気もするが……)