マクロビオティックに挑戦してみて、成功する人とそうでない人がいる。
成功するとは、マクロビオティック実践により体調や精神面に何らかの向上が見られ、マクロビオティックを続ける意欲を持てること。
成功しないとは、マクロビオティックを実践したのに何も変化がない、もしくは心身の状態が悪化して、「こんなのインチキじゃん」とマクロビオティックから離れてしまうこと。
両者は実に表裏一体、紙一重だ。
信じる心の有無
違いはおそらくただ一つ。信じる心を持っていたかどうかだ。
何事においても、「うまくいく」と信じて取り組むのと「うまくいきっこない」と疑いながら取り組むのとでは、結果が違ってくる。
信じていれば、途中どんな困難があろうとも「この先にきっと光が!」と耐え抜くことができる。だが、疑っていると、困難がふりかかってきたときに「やっぱりダメだった」とそこで諦めてしまう。
歩み続けていればたどり着いたはずの栄光のゴールを見ずして、そんなものがあると知ることもなく、ステージを降りてしまう。
マクロビオティックも同じだ。
信じているとマクロビオティックを継続する
たとえば、マクロビオティックの教えに則して玄米ご飯と野菜の食事を続け、数ヶ月後に生理が止まってしまったとする。
健康を得られると信じてマクロビオティックに取り組んでいれば、その「生理停止」という現象をも肯定的にとらえることができる。きっと、何か体の中で良い変化が起こっているに違いないと。
だが、マクロビオティックを疑っていた人は、生理が止まってしまったことがネガティブな現象に思える。やっぱり、マクロビオティックっておかしい、生理が止まっちゃった!……と。
信じていた人は続行する。疑っていた人はそこでやめる。
結果、信じていた人の生理は数ヶ月後に再び復活し、しかも周期が以前よりととのい、生理痛も軽減されたりする。それに感激し、ますますマクロビオティックへの信頼が強まる。
続けていれば得られていたはずの健康
マクロビオティックをやめて元の食生活に戻ってしまった人は、続けていれば体験できたはずのことを知らないままに、その後の生活を送る。
マクロビオティックで得られたはずの健康を得ないまま終わったからといって、特に問題があるわけではない。だが、もったいないのは確かだ。
健康は、いくら増大しても困ることなんてない。もらえるものならもらっておきたいと思うはずだ。マクロビオティックを続けていると、ほぼもれなく健康がプレゼントされると思って良い。
だから、信じることだ。マクロビオティックにトキメキを感じ、これはスゴイんだ! と、わくわくしながら取り組むことだ。
好きなものを食べられない苦しみだって何のその。この先に、想像したこともないような楽しい世界が待っていると思えば耐えられる。
マクロビオティックを続けることによって見られる世界というのは素晴らしい。耐えて、悩んで、葛藤し抜いて、そこまでする価値が十分にある。
見えないものを信じて貫くのは簡単ではない。けれど信じてほしい。きっと、きっと、続けて良かったと思える日が来るはずだ。
2018年追記:九年後思うこと
上記記事を書いてから九年が経過した。
マクロビオティック実践の果てに体調を崩して現在は自分なりの健康道に移行している身にとって、上記記事冒頭の「マクロビオティック成功者」「マクロビオティック失敗者」のうち、自分は一体どちらに該当するのか、改めて考えてしまった。
私は結果的にマクロビオティックから離れた。ここだけ見ると失敗なのだが、「インチキじゃん」というような悪感情はマクロビオティックに対して持っておらず、今でも、一つの興味深い食のあり方を体験させてくれたことに感謝している。
玄米、梅干し、ひじきなど、マクロビオティックを実践しなければ積極的に食べなかった健康食材も多い。
だから、新たに定義し直したい。
マクロビオティックに成功するとは、最終的に、マクロビオティックに感謝の心が持てること。
マクロビオティックに成功しないとは、最終的に、マクロビオティックに感謝の心が持てないこと。
この新基準に照らせば、私はマクロビオティックに挑戦し、成功した人間と言えると思う。