「私にはこんな病気がある。マクロビオティックに興味があるが、実際、どんな感じだろうか?」との質問が、インターネット上の掲示板で出されていた。
それに寄せられていた答えは、マクロビオティックに対して慎重なものばかりだった。
「制限が厳しいからおすすめできない」。「周囲に実践者がいたが、病状が良くならずやめていた」。「いきなりマクロビオティックではなくて、もっとゆるいところから入ったら?」……。
まるで、対象年齢の高い難しい本を、一行も読ませないうちに「お前には難しいから、無理だよ」と、興味を持って読みたがっている子どもに対して言って渡さない大人のようだ。
だが、これは相手の能力を軽視した、謙虚ではない態度なのではないかと思う。
確かにマクロビオティックには、深く探っていくと袋小路に迷い込むような複雑な部分もある。
けれど創始者の桜沢氏はマクロビオティックを、子どもにでも振り回せる簡単な原理を持ったものとして考えていた。「簡単明瞭な理論なき技術は危険である」(*1)ともおっしゃっている。
つまり、マクロビオティックの理論そのものは、「簡単明瞭」なのだ。
それを実践に移して継続していくとなると、個人の意志や判断力にかかってくる部分が大きくて簡単ではなくなってくるが、そんなことを心配して渡さずにいてはマクロビオティックに埃がかぶってしまう。
私だったら、まず、何はともあれマクロビオティックをやってみてほしいと思う。
辛い思いをするかもしれない。失敗するかもしれない。けれどそれでも良いではないか? 食と自分との関係について、じっくり考える機会になることは間違いない。だったら、たとえ結果としてマクロビオティックから離れることになろうとも、経験したことには意義があったことになる。
あるいは、すべての葛藤を乗り越えて、マクロビオティックを学ばなければ到達しえなかった、楽しく自由な境地へ行けてしまうかもしれない。
「マクロビオティックはやめた方が……」という消極的な発言をして相手のやる気をそいでしまうと、そのどちらの可能性も奪うことになる。
火の恐ろしさを知らない子どもが、火に手を突っ込みたがっているときに「じゃあ突っ込んでみよ」と言うのは確かにおかしい。そういうときは「火傷するからダメだよ」と教えるのが周囲の役割だ。
だがマクロビオティックは燃えさかる火とは違う。少なくとも私にとっては、マクロビオティックとは光り輝くベールに包まれた、まばゆい球体のようなイメージ。目はくらむかもしれないけれど、触れて怪我をすることなどない。
まずは触れさせてあげてほしい。そこから先は、相手が自由に判断するだろう。