マクロビオティックを学び始めて間もない頃、私はその制限の多さに驚いた。
肉、卵、牛乳の食物アレルギーで、すでに十分な制限を受けていると思っていたのに、それに加えて魚や砂糖、バナナやトマト、果物まで……。
大丈夫だろうか? 辛くって、すぐやめてしまうことになるかもしれない。「食の楽しみ」を奪われるようで寂しい。最初はそう思っていた。
けれど、マクロビオティック開始から七ヶ月目。「基本的に玄米ご飯しか食べられない」7号食を実践して、私は食の真の意味に気づいた。
玄米ご飯しか食べるものがない。それは、ある種の飢餓状態だった。食卓の上にぽつんと載せられたご飯茶碗。盛られた玄米ご飯を見つめ、私はうろたえた。これだけ? これしか食べるものがないの?
自分で作った状況とは言え、あまりのありえなさに笑ってしまうほどだった。
「ありえない」。そう思ってしまったのは、私が豊かで華美な食に慣れきってしまっていたためだった。
玄米ご飯を口に運び、目を閉じ、私はもくもくと噛んだ。おかずがないから、自然と意識は玄米ご飯に集中した。豪華さなど微塵もなかった。だが、そこには「命をつなぐために食べる」というしみじみとした喜びがあった。
今、玄米ご飯だけが、私の命のすべて。肉体を作るすべて。そう思えたときに、玄米への敬意と感謝の気持ちがあふれた。
食べるのに楽しさなんか求めるのが間違いだったのだと悟った。これが本来のあり方だ。命をつなぐため、身体を養うため、食べるのだ。
そのときから私は、「食事は仕事だ」と思うようになった。
よく噛むから顎は疲れるし時間もかかるけれどそれは胃の消化を助けるため。見た目は質素でも、玄米ご飯と野菜のおかずのような食事の方が体が喜ぶ。
目と舌に快楽を与えるのを「食の楽しみ」と呼んできたけれど、それは本当の食ではなかった。食は、いつも頑張って働いてくれる体に、苦労して捧げるものだ。
↑鉄火味噌おにぎり、もろみべったら漬け、小松菜と油揚げの煮浸し、きんぴらごぼう(2009.2)
見た目の華やかさなどなくたっていい。肉や魚のこってりした味わいも必要ない。ただ、ただ、素朴に。体のために。
そんな食事で心の底から満足できるようになったとき、気持ちは豊かにふくらみ、また一段階、マクロビオティックの実践レベルも上がるのだ。