ネットニュースを読んでいて、「伝統の料理」という見出し(*1)に目が留まった。
マクロビオティックに関係することかな? と興味を持って読んでみたがそうではない。正月の、おせち料理に対する思いが書かれたコラムだった。
小さい頃はおせちを美味しいと思えなかったという著者。読み進めて、「ん?」と立ち止まる。
『菩薩だったのは、そんなおせち料理が、3日連続で食卓の主役を飾ることでした。』
ぼさつ? いや、違う、もう一度よく見てみれば、「菩薩」ではなく「苦痛」。正しくは、『苦痛だったのは、そんなおせち料理が、3日連続で食卓の主役を飾ることでした。』という記述だった。
何で菩薩だよ! どれだけ仏教だよ! と、私は心の中で自分に突っ込みを入れた。確かに字面は似ているが、「苦痛」を「菩薩」と読み間違えるなんて。
だが、案外、苦痛を菩薩と読み替えても意味は通じるのでは? と思えてきた。
菩薩とは、「悟りを求める人」の意。「仏の位の次にあり、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者」(*2)のことだ。
だったらむしろ、苦痛と言う代わりに菩薩と言ってしまった方が、なんだか崇高な雰囲気が漂ってこないか?
苦痛を菩薩と言い換える
たとえば前述の記事であれば、苦痛を菩薩と言うことで、3日連続のおせちがとてもありがたかった……というような雰囲気になる。
「手応えのあまり良くなかったテストの結果を見るのは菩薩だ」だったらどうだろう? 見るのが辛い結果でも、それに耐え、達観して、なんとか受け止めようとしている姿が浮かんでくる。
私は、様々な「苦痛」の状況を考え、それをすべて「菩薩」で置き換えて考えてみた。
「性格の合わない人と喋るのは菩薩だ」
「転居先で新しい美容院を探すのは菩薩だ」
「虫歯の痛みは菩薩だ」
苦痛を菩薩と言い換えるだけで、嫌な事柄に感謝しているような感じになる。そしてそれは、マクロビオティックの「陰あれば陽」に通じると気づいた。
嫌なことがあるからこそ、人間は鍛えられ、結果、喜びを手に入れる。
だとしたら、苦痛はきっと、本当に菩薩なのだ。字が似ているのも偶然ではあるまい。「辛」に棒を一本足せば「幸」になる、そんな関係に違いない。
生きていればどうしたって嫌なことはあるし、逃げようと思って逃げきれるものでもないから意気消沈することもあるけれど、そんなとき、「苦痛だ……」と一度悲しみに沈んで、のちに、「でもきっと菩薩だ」と自らを慰め、心を立て直す勇気を持っていたい。
苦痛は、厳しい顔をした仮面の下に「衆生を救う」という志を隠し持った、菩薩なのだ。
*2:小学館『大辞泉』p.2434