マクロビオティックに、万人に共通する正答などない。
自分の体と心に合ったマクロビオティックというものを見つけるためには、誰にも頼らず、独りで学び、独りで実践し、その中から自分だけの方法論をつかんでいかねばならない。
実験の連続なのだから当然失敗もある。失敗やむなし。失敗することによってしか学べないこともある。
私はずっと強気だった。失敗しても笑っていられた。失敗こそ良師だと胸を張って言えた。
だがそれは、私が経験したマクロビオティックにおける「失敗」の程度が軽かったおかげだったのだ。
マクロビオティック実践三年目間もなくして、マクロビオティックのワクから大きくはみ出し、自分だけの道を極めようとした私は体調を崩した。(この体調不良について詳しくは「マクロビオティック実践の果てに病に堕ちる」参照。)
最初は夏バテのような全身の倦怠感。それが治ったと思った頃にインフルエンザにかかったかのような高熱、下痢、頭痛。ようやく一段落ついたと思った時に油断して出歩いたのが運の尽き、ついには喘息の症状まで現れた。
これは完全に治さなければいけないと一念発起し、食事をととのえ安静にして、現在はかなり良くなったのだが、それでも微熱は続いている。
大きすぎる失敗
私は自分の威勢の良さを思い出して苦笑した。失敗何するものぞと息巻いていて、本当に失敗したな。
だが今回は、食べ過ぎて胃もたれがするとか、そんな可愛い話では済まなかった。人生で一番ひどい風邪だ。
長引きすぎている。もう二ヶ月だ。私は失敗するようなマネをしたことを悔やんだ。どうしてあんな、進んで病気になるような食べ方をしてしまったのだろう。今思えば身震いする。
……いや、後悔などしても仕方ない、これは必要なことだったのだと頭ではわかっていても、心は晴れなかった。
堕落論
そんなとき、本棚の中で、一冊が目をひいた。坂口安吾の『堕落論』。タイトルがいかにも今の自分にぴったりだ。
大学時代に買って、読み切らないまま終わっていた本だった。私は再びページを繰ってみた。
健康に関する実用書ばかり読んでいたから、気分転換にでもなればいいなという軽い気持ちだった。だがそこに、私は私へのメッセージとも思える文章を見つけた。
『自分自身の武士道(略)をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。(略)堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。』(p.86)
「自分自身の武士道」を、私は「自分自身のマクロビオティック」と読み替えて解釈した。
そうか、自分だけの道をあみだすには、堕ちなければいけなかったのだ。それも、軽く堕ちるのではなく、「堕ちきる」ことが必要なのだ。
自分自身のマクロビオティックを見つけるために
白砂糖を食べて鼻水が止まらない、食べ過ぎてお腹が痛い、そんな失敗で終わっていれば楽だったけれど、それでは自分自身のマクロビオティックを真に見つけることはきっとできなかったのだ。
『生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。』(p.84)
私は堕ちた。だからこそ救われるのだ。
高熱にうなされながら天に対して呪いの言葉を吐き、涙を流した、暗さ。
いつ微熱が引くのか、完治を信じながらも不安を拭えず、濃い霧の中を出口求めてさまようような、暗さ。
あの気高さはどこへ行った。「堕落」。
だが、堕落したからこそ、私はついぞ見たこともなかった高みへ上るきっかけをつかむだろう。
深い、深い闇が朝日を呼ぶように。
死が生へとつながっていくように。
私は身を焼かれ、そこから再び生まれるだろう。
そのときはもっと強くなる。
……この失敗が今で良かった。もし私が現在年老いていて、体力がなければ、風邪をこじらせたまま死んでしまったかもしれない。
今堕ちて良かったのだ。やり直せる。
せっかく堕ちたこの深く暗い秘密の場所。皆が恐れて近づかないこの秘境に転がっている黒い宝石を両手にいっぱい持って、上に帰ろう。
そしたら、光にかざして研究をするんだ。
「私だけのマクロビオティック。私だけの健康への道。私だけの人生」。私は間違いなく、正しい道を歩めているようである。
【マクロビオティック卒業後の食事法について】
追記:その後、マクロビオティックを卒業し、自分オリジナルの健康道に移行しました。↓
↑「玄米・ごぼう汁基本食」を食べたらあとは何を食べても自由という食事法です。