どうも苦手だったものが、あるとき急に好きになることが今まで何度かあった。
だから、あまり得意ではないと感じるものに出くわしたとき、私は、「苦手と感じること自体、その対象に何かしら心が引っかかるということ。本当は好きなのかもしれない」と気持ちを切り替え、精神の平穏を保ってきた。
何かを嫌悪する気持ちは、精神を乱し、自分を痛めつけるから。すべてのものを好意的に見るよう、意図的に訓練してきたような節がある。
一度好意的に見られれば、その後嫌いになることはないと、どこかで信じていたから。
だが最近、絶対に変化することはないと思っていたある対象への「好き」という気持ちが、ぐらりと「苦手」へ変わるという経験をした。何か、その対象物に嫌なことをされたわけでもない。ただ勝手に、自分の判断が変わったのだ。
初めて、「好き」という決めつけの危うさを感じた。
「可愛さ余って憎さ百倍」とはよく言ったものだ。憎くさえなければ、好きでさえいれば問題ないと思っていたけれど、その「好き」という気持ちは「憎しみ」に反転しうる、偏った感情だったのだ。
陰が極まって陽に転ずるならば陽も極まれば陰に転ずる。私はマクロビオティックのことを思った。私は今、マクロビオティックに近づきすぎてはいないか? 心酔して、踏み込みすぎてはいないか?
ダメだ、接近しすぎては。私は、マクロビオティックと、生きている間ずっと伴走したい。だって、こんなにも便利な哲学なのだもの。ポケットにいつも入れて、必要なときに自由に取り出して自分をコントロールするために使いたい。嫌いになりたくない。嫌いになったら使えなくなる。そんなのもったいない。だから、盲目的に好きになってはいけない。
好きでも嫌いでもない。この態度が、マクロビオティックと一生をともにするには重要だと感じた。素晴らしい哲学。だからこそ常に冷静に。「自分」を軸にして、他に判断を委ねない。
私はマクロビオティックを尊敬するし、感謝もしている。だが、「マクロビオティック」を軸にし、自分で考えることをせずマクロビオティックの言いなりになってしまえば、いつか尊敬は軽蔑になり、感謝も憎しみに変わってしまうのだろう。
マクロビオティックが好きだからこそ。私はマクロビオティックと距離を置く。「中庸」の精神的位置を保つ。
そうすれば、べた惚れしない代わりに嫌いにもならず、良い関係を維持したまま、マクロビオティックとともに人生を歩んでいけるだろう。