希望にすがりたくても不安の方が勝り、精神的に最も追いつめられていた2004年。
このままでは生きていられない。私は、心に層を成す暗闇を蹴散らすことに躍起になった。
そんな中でおこなった療法の一つが、
「心が暗くなるような情報は見ない・聞かない」
ということだった。(補足:「療法」と言っても医者にかかったわけではなく、自分で勝手に考え出した自分のための療法である。)
たとえば、人命が失われるような事件や事故。陰口めいたゴシップ。愚痴、不満、批判。
あらゆる媒体はそんな情報であふれていて、人の野次馬根性を煽っている。
暗い情報でも、健康な精神状態であれば受け流せる。だが、弱った精神にはささいな毒が手ひどいダメージとなる。
たとえば、健康な人なら一度のドカ食いくらいで体調を崩したりしないが、病気で衰弱している人が暴食すると、下手をすれば死に至ってしまう。それと同じだ。
自ら生み出す心の闇が深すぎるときは、よその闇まで背負うと、自分がつぶれてしまう。
自分を守るために、私は身の回りのほぼすべての情報から自分を遮断した。
新聞、週刊誌は読まない。テレビも見ない。
インターネットは、使用する検索エンジンを、ニュース速報の表示されないものに変えた。
世に流れる情報は暗いものばかりではなく、知っておいた方が良いもの、知ることで幸せな気持ちになるようなものもある。
新聞やテレビを一切見ないことで、それらの有益なニュースも見逃してしまう。
だがそんなこと、ちっとも惜しくなかった。
心の平穏を取り戻すのが先決だ。ニュースなど、元気になってからいくらでも見れば良い。
私は精神的隠遁生活を決め込んだ。
同時に、「悪口を言わない」でも書いた「何を見ても何も思わない訓練」を積んだ。
そうして、世の中の流れを知らないままに数ヶ月過ごし、心に静けさが戻ってきた頃、安全そうな記事を選びながら少しずつ新聞や雑誌に目を通すようになった。
油断して、衝撃的な字列が目に飛び込んでくるときもあった。だが「何を見ても何も思わない訓練」を積んだのはそういう事態に備えてのことだった。
心に傷を負う前に、何事もなかったかのようにするりとその情報を頭から流してしまう。
こうして私は、雑多な情報に接しながらも「毒のある情報は受け取らず、必要な情報だけ深く受け止める」という技術に長けていった。
しかし私は今でも、昔のように無防備にありとあらゆる情報に身をさらすということはしない。
新聞も読むしニュースも見るが、あまり良くない情報だなと判断すればパッと目をそらして頭に入れないようにしている。
受け流すのが上手になったとは言え、完全ではない。暗い気持ちになるようなものに触れないで済ませられるならその方が良い。
けれど、穏やかならざる情報というのは誘惑に満ちている。見ない方が良いとわかっているのに、つい目を通してしまうことが最近もあった。
結果、その情報から発せられた毒の矢をかわすのに失敗し、私の心は怒りと苛立ちに震えてしまった。無駄な心労である。自分をなだめるのに数日を要した。
見なければ穏やかでいられたものを! こういうときは本当に悔しい思いをする。
やはり私にはまだしばらく、「心が暗くなるような情報は遮断する」という方向の努力が必要なようである。