健康法は、他人に依存してはいけない。一人一人が、自分の体や心に合わせて作った、自分だけの健康法に依って生きるべきだ。
なぜか? 世の中にはすでに優れた健康法があまたある。それらに準じた食生活をして、実際に体調が改善もしたならば、別に自分だけの健康法など作らずともそのまま既存の健康法に従って生きていっても良いのではないか?
そう、思うかもしれない。
だが、既存の健康法とは、他人の健康法なのである。他人の健康法に従って生きるということは、他人の言いなりになって生きるということだ。
自分自身の判断力を信じず、他人の方が自分より正しいと思いこみ、自分の考えを抑え込んで他人の言うとおりに動き続ければどうなるか。
いつしか人生の主導権は他人に握られ、行動を支配され、搾取される。
他人の型に自分を無理にはめこむことで、不自然な力がかかり、合わない靴を履き続けたときのように自分の体や心が傷みもする。
自分を明け渡してはいけない。他人の健康法を参考にするのは大いに結構だが、その目的は「自分の健康法を作るため」だということを忘れてはならない。
自分の健康は自分で決める。自分の指導者は自分。その気高さを常に持っていなければならない。
健康法を作ることへの不安
しかし、自分で健康法を作ることに不安を覚える人もいるかもしれない。自分が作った健康法を実践したところで、健康を保てなかったらどうしようと。
より確実性を求めて、良さそうに見える他人の健康法に依存したくなるかもしれない。
そういうときは、こう考えるのだ。自分が健康法を実践するのは、健康になるためというよりは、病気になったときに後悔しないためだと。
病気になることを前提に考えるのだ。
そうすれば、失敗への恐れが減り、自分だけの健康法を実践する勇気が湧く。
病気は避けきれない
そもそも、どんなに完璧に見える健康法を実践したとしても、病気は避けきれるものではない。
私もマクロビオティック実践中、自らの暴食が招いた結果とは言え、病に堕ちた。
そのときの胸中は複雑なものだった。
確かに自分が食べると判断して食べたのだから、それで病気になってもマクロビオティックのせいではない。だが、マクロビオティックさえやらなければ、暴食につながるストレスもなく、こんな病気にもならなかったはずだ。
マクロビオティックのせいではない。いや、マクロビオティックのせいだ。
私は、独学のマクロビオティック実践者で、独立心と研究心を大事に、創始者である桜沢氏の言いなりには絶対にならないように、反発心すら持ちながらマクロビオティックに取り組んでいた。
そんな私ですら、病気になったときは、マクロビオティック、つまり他人のせいにしたくなったのだ。
それは、少なからず、私がマクロビオティックの言いなりになってしまっていたことを意味していた。
自分の考えを曲げて、言うとおりにしたのに、なぜこんな目に遭わなければいけないんだという怒りが湧いていた。
もしこのときに、自分だけの健康法を実践していたならどうだろう? 病気になってしまったことへの悲しさや絶望はあるだろうが、「自分の思う通り、自分なりに一生懸命やった結果だ」と、潔さが生まれ、後悔は少なく済んだのではないか。
どうせ病気になるならば
病気とは、生きていればかかるものである。その前提に立てば、健康法を実践する姿勢にもたくましさが生まれる。
どうせ病気になるならば、他人の健康法ではなく、自分の健康法を実践した結果でありたい。
自分を、自分なりに精一杯大事にして、自分を生かそうと努力して、その末に
自分の感じ方を無理に他人に合わせ、他人の言うとおりに生きてみて、病気になったら、その怒りは尋常ではない。
自分の健康法を作り、それに依って生きよう。自分のために。